今回は「危険だと認められる場合って誰が決める?・・・・抽象表現が生む交通ルールのあいまいさと法的リスクと電動モペット」を書こうと思います。
とりま、法律には非常に多く抽象的な表現が使用されています。例えば「やむを得ない場合は・・・・」といっった表現が多く使われています。
例えば自転車が歩道を走行出来る時の規定の道交法64条項に4項の三には「前二号に掲げるもののほか、車道又は交通の状況に照らして当該普通自転車の通行の安全を確保するため当該普通自転車が歩道を通行することがやむを得ないと認められるとき。」とやむを得ない時と記載されています。
なので、上記の様に「・・・・・認められる場合」のこの一文、どこかで見覚えがある方も多いでしょう。警察庁の自転車の通行ルールの道交法では、それは自転車が歩道走行を認める条件です。
しかし、この「危険であると認められる場合」という表現・・・・実は法律運用上かなりの曲者です(苦笑)。何が危険なのか、誰がどう認めるのかなどの判断基準は明確な基準が存在しません。
その結果、現場の判断や地域差、場合によっては「警察官の主観」で決まってしまうこともあります。
そして、同じようなあいまいな線引きがもう一つあり、それが、見た目では区別がつきにくい「電動モペット」と「電動アシスト自転車」です。
どちらもモーター付き、どちらも静かですがけれど、法的にはまったく別の乗り物です。今回は、自転車の歩道通行ルールに潜む「抽象表現」と、電動モペットの線引き問題を書こうと思います。
【危険であると認められる場合・・・・・判断基準の曖昧さ】
自転車は原則「車道通行」ですが、ただし、道路交通法上の例外として「車道の通行が危険であると認められる場合」に歩道を通ることができます。
警察庁の通達では「車道幅が狭い」、「交通量が多い」などの例を挙げていますが、どれも抽象的な表現です。「狭い」とは何メートルか、「多い」とは何台か、明確な数字はどこにも書かれていません。(苦笑)
結果として、地域や担当警察官によって判断が異なるので、ある地域では「ここは危険だから歩道OK」、別の地域では「この程度なら車道走行を」と運用が分かれるケースが少なくありません。
つまり、同じ法律でも、解釈によって「合法」にも「違反」にもなるのです。
【抽象表現がもたらす3つの問題点】
●① 利用者が判断できない問題
「危険であると認められる」と言われても、誰が認めるのか明確でなく、利用者自身が判断できなければ、利用者の意図せぬ違反が起こりやすくなります。
●② 行政・警察の裁量範囲が広すぎる問題
基準があいまいなまま運用されると、現場の警察官の判断次第で取締りの可否が変わってしい、この警察官の裁量の幅が、地域差や警察官個人の感覚による不公平を生み出します。
●③ 説明責任を果たせない問題
「なぜダメなのか」、「なぜここでは良いのか」を明確に説明できないので、抽象的文言のままでは、市井の民からの疑問に対して理屈ではなく雰囲気で答える行政になってしまいます。(笑)
【電動モペット問題・・・もう一つの抽象的境界】
近年増えているのが、「電動モペット」と「電動アシスト自転車」の混同です。
見た目がほぼ同じ、速度も似ていますが、しかし法的には別物です。
| 種類 | 法的位置づけ | 免許 | ナンバー | ヘルメット | 走行可能場所 |
| 電動アシスト自転車 | 自転車 | 不要 | 不要 | 努力義務 | 歩道・車道か |
| 電動モペット | 原動機付自転車 | 必要 | 必要 | 義務 | 車道のみ |
問題は、どこからがモペットなのかが外観からではわかりにくい点です。
アシスト機能の範囲を超えてモーターが駆動すれば「原付扱い」とされますが、実際には基準が複雑です。
特に海外製やネット通販モデルでは、「自転車として売っているが実際は原付性能」というグレーな製品も少なくありません。
そのため、「普通の電動自転車だと思って歩道を走ったら、実は原付扱いで無免許運転だった」というケースも現れている様です。
まさに、法令上の抽象的境界が引き起こす混乱です。
【共通する構造・・・・あさが生む責任の所在のぼやけ(苦笑)】
自転車の歩道通行でも、電動モペット問題でも、共通点は明確です。要は、どちらも、「どこまでがOKで、どこからがNGか」が明確でない点です。
それによって――
- 利用者は意図せぬ違反者になる可能性がある。
- 行政は恣意的にグレーゾーンに逃げ込める。
- 結果的に、誰も責任を取らない構造になる。
つまり、抽象的な表現は便利なようでいて、法的安定性を失わせる諸刃の剣です。
【なぜ明確化が進まないのか?】
抽象表現を残す最大の理由は、「一律の数値基準を設けると、例外的ケースに対応できない」ためで、例えば「車道幅3m以下なら歩道可」と決めてしまうと、3.1mの狭隘道路では対応できない事になり、行政は柔軟な運用を保つために、あえて幅のある表現を残しているのです。
しかし、その許容幅が広すぎると、利用者から見れば穴になります。法令の目的が「安全のため」なら、その安全を利用者が判断できるように明示すべきではないでしょうか?。
【抽象的表現の先にある「法の信頼性」とは?】
法律は「誰が見ても同じ結論にたどり着ける」ことが理想ですが、ところが、抽象的な表現が残ると、運用が個人の感覚に委ねられ、信頼が揺らぎます。
特に交通ルールは、違反に対する命と罰則が直結する領域で、「危険であると認められる場合」や「アシストとモペットの違い」など、曖昧な言葉のままでは、市井の民は安心して守ることすらできません。
もし本当に安全を守るためのルールなら、誰が見ても分かる形、即ち、明確な基準と説明責任が求められます。
【纏めると】
「危険であると認められる場合」や「アシストかモペットか」といった抽象的文言が、現場で混乱を生む。
- 曖昧な基準は、利用者自身を意図せぬ違反者にし、行政の説明責任を曖昧にする。
- 数値基準・構造基準・車体性能の明示など、具体的な判断材料の整備が急務。
- 柔軟な運用と明確な説明の相反するバランスこそ、これからの交通行政の課題。
【最後に】
結局のところ、「誰がどう認めるのか」をはっきりさせない限り、交通ルールは取り締まる警察官の現場での空気と裁量で運用され続けます。そして、気がつけば歩道で走る電動モペットや、違反とは知らずに捕まる利用者が増えるのです。(苦笑)😱
曖昧なルールの代償は、いつも末端の市井の民が払うのです。🤷♀️

