今回は「タクシー営業区域の「壁」はいつできた?」を書こうと思います。
とりま、タクシーで営業区域外の客を運んで行くと原則帰りは客を拾う事は出いkません。
「いやいや、営業区域に行く客なら乗せられますが?」って言う声が聞こえていそうですが、そんな都合よく営業区域に戻る客を拾う事なんて無理ゲーなので帰りは空気を運んで帰る事になります。
横浜のタクシーが東京まで客を積んで、帰りは東京で横浜の客を積んで帰るなんてそんな都合が良い話は有りません。
「ここは営業区域外だから、客を乗せられない・・・」 営業中、この手を挙げている客がいるのに拾えない、そんな「見えない壁」に歯がゆい思いをすること、ありますよね。
このルール、一体いつから、どういう経緯で今の形になったのでしょう。実はこれ、最初から「自由」だったわけでも、ずっと同じ「エリア」だったわけでもないんです。
【1951年:現代タクシーの「憲法」が誕生した日】
よく「1951年(昭和26年)の道路運送法から営業区域が始まった」と言われますが、これは「それまで無許可だった」という意味ではありません。
むしろ、戦時中のタクシーは今よりずっと不自由で、国によって強制的に会社が統合されるような「超・統制時代」だったんです。
そんな戦時中の混乱や古い縛りをリセットし、民主的でクリーンな「現代のルール」として整理し直したのが1951年の法律で、いわば、現代タクシー業界の「憲法的存在の道路運送法」が産声を上げた瞬間です。
ここで改めて「免許ごとに営業できるエリアをバシッと決めよう」という土台が固まりました。
【「交通圏」の導入:細切れのエリアがつながった瞬間】
ただ、当時の営業区域は今とは比べものにならないほど狭いものでした。基本は「市・町・村」単位だった様で、隣の町へ行けばもう「よその土地」で、帰りに客ん拾うことは今と同じ様に厳禁だった様です。今の感覚からすると、信じられないほど効率が悪かっ様ですね。
転機は1960年代後半で、高度経済成長で街が広がり、市町村の境目なんて関係なく人が動くようになりました。
そこで1969年(昭和44年)頃から、実態に合わせて複数の自治体を大きなブロックでくくる「交通圏=ブロック化」という仕組みが導入されて、現場の「帰りも乗せたい!」という声が、ようやく形になったわけです。
【1970年11月1日:「特別区・武三」エリアの誕生】
東京の乗務員にとって最大のトピックといえば、1970年(昭和45年)11月1日。この日に、昨日書いた今の「特別区・武三」という巨大な営業区域が誕生しましたと角と誤解を招く恐れがあるので、正しくは 👉 「特別区」と「武三」という“別々の営業区域が整理・成立した」と言う方が正確です。
それまで武蔵野市と三鷹市は「北多摩」という別のグループでしたが、中央線沿線の発展で23区との一体化が凄まじく、もはや分ける意味がなくなっていました。
そこで「この2市は23区と一緒にしよう!」と大統合が行われたんです。すぐ隣の調布や狛江がこの時入らなかったのは、当時の交通量や経済の結びつきに明確な「線」があったからだそうです。この絶妙な境界線には、当時の都市計画のドラマが隠されている様です。
【自由化の波を越えてなぜ今も「区域」があるのか】
2002年に規制緩和があり、タクシーは「免許制」から「許可制」へとハードルが下がりました。・・・・でも、営業区域だけは撤廃されませんでした。
もし区域がなくなれば、車はみんな稼げる東京や大阪の都心部に集まってしまい、地方の交通が全滅してしまいます。
今の交通圏という仕組みは、私たちの仕事の効率を守りつつ、日本全国の「移動の足」を維持するための、長年の経験から生まれた知恵の結晶なの様です。
こうして振り返ると、いつもの営業エリアも、業界が効率と公共性の間で葛藤して作り上げた「汗の結晶」に見えてきませんか?
営業茎の境界線を越えるたびに、「ここが1970年に繋がった場所か~」なんて思いを馳せてみるのも、プロドライバーならではの楽しみかもしれませんね。
951年以前も許可制や戦時下の統制がありましたが、現代の交通圏に繋がる法整備はこの年が起点です」
それでは、今日も安全運転で無事に帰庫して下さい!😊
