京浜交通圏はいつ、どうやって出来たのか?

タクシーの話題

今回は「京浜交通圏はいつ、どうやって出来たのか?」を書こうと思います。 

とりま、何日か前からタクシーの交通圏の事を書いていますが、東京特別区・武三地区の武蔵野市と三鷹市が同じ交通圏になった事までの意味は分かりまあしたが、自分が勤務する京浜交通圏はどの様にして出来たかは、サッパリわりません(笑) 

なので今回は「京浜交通圏の成り立ち」を書こうと思います。 

京浜交通圏という言葉は、いかにも最初から制度として存在していたように見えますが、実際はそうではありません。 

ある日突然何の兆しが無く決まったものではなく、戦後の制度設計と都市の拡大、その両方が積み重なって形になったものの様です。 

そしてその過程の中で、ひとつの大きな転換点になったのが1970年(昭和45年)11月1日の営業区域統合だった様です。 

【 出発点は細かく分かれた営業区域】 

戦後、昭和二十六年法律第百八十三号 の法律の道路運送法によってタクシーは許可制となり、営業区域ごとに運行する仕組みが整えられました。 

当時は現在のような広域的な発想はなく、東京、横浜、川崎、横須賀といった具合に、都市ごとに区切られた比較的狭い区域が営票の基本でした。これは当時の交通事情を考えれば自然なことで、人の移動範囲自体がまだ限定的だったためです。 

【高度経済成長で境界が崩れる】

 しかし1960年代に入ると状況は大きく変わり、人口の都市集中と鉄道網の発達により、東京と神奈川東部は完全に連続した生活圏になります。 

行政上の境界とは無関係に人が移動するようになり、従来の営業区域では実態に合わなくなっていきました。このズレを解消するため、運輸省や関東運輸局(当時は関東陸運局)が、営業区域の見直しと広域化を進めていきます。 

【 1970年11月1日公示という転換点】

 その流れの中で決定的な意味を持ったのが、昭和45年(1970年)11月1日に施行された営業区域の統合です。この公示によって、それまで分散していた東京・川崎・横浜・横須賀などの営業区域が広域的に整理され、実質的に一体の営業単位として扱われる基盤が整いました。 
この公示のポイントは明確で、 
営業区域の統合 
・需給調整の広域化 
・既存事業者への段階的移行措置 
といった内容にあります。 
つまり、市単位の管理から都市圏単位の管理へと発想が転換されたわけです。これによって、現在の京浜交通圏につながる骨格がほぼ完成したと言えます。 
ただし重要な点として、この公示の原文は現在一般公開されておらず、内容は国会図書館で調べればわかりますが、しれ以外は業界資料や後年の整理によって把握されているものになります。 

【「京浜交通圏」という言葉は後から定着】

【「京浜交通圏」という言葉は後から定着】 
興味深いのは、この統合の時点で「京浜交通圏」という名称が明確に宣言されたわけではないことです。 

行政の公示はあくまで営業区域の変更を規定するものであり、名称を前面に出すものではありませんでした。 

その後、行政文書や業界内でこの広域区域を指す呼称として「京浜交通圏」が使われるようになり、徐々に定着していきます。つまり、実体が先にあり、それを説明する言葉が後から整備されたという流れです。 

【まとめ】 

京浜交通圏は、特定の一日で誕生した制度ではなく、戦後の制度設計と高度経済成長による都市拡大の中で形成されたものです。 

その中でも前記した1970年11月1日の営業区域統合は、現在の形を決定づけた大きな転換点でした。ただし、その内容は単一の公開資料で確認できるものではなく、複数の行政処理と運用の積み重ねとして理解する必要がある様です。 

だからこそ京浜交通圏は、単なる地理的区分ではなく、「実態に合わせて後から形づくられた行政上の構造」と言えると思います。